宝性寺縁起/霊場案内
写真は昭和43年に落慶され、平成28年に改築される前までの本堂
宝性寺縁起『うらわ文化』掲載原本まま
足立坂東観音霊場 第十番札所
宝性寺は足立坂東観音霊場の第十番札所になっております。
足立坂東観音霊場 は宝永二年(1705)に足立郡塚越村(現 蕨市塚越
)の高橋休山により、当時の足立郡大宮以南の寺院仏堂をもって創設されました。また、この他にも同じ名称で、大宮以北の寺院仏堂で構成された、桶川市下日出谷の知足院が札元の観音霊場があります。ここでは前者の大宮以南の足立坂東観音霊場を案内しています。
一番札所は大宮氷川神社の別当で観音寺でしたが、明治政府の神仏分離令で廃寺することになり、 隆山住職は以前に住職を務めていた満福寺に退去し、一番札所も聖観音像と共に満福寺に引き継がれた。このことが、上述の二つの霊場を結びつけることになりました。満福寺は大宮以南の霊場(1番)と以北霊場(33番)が共有する唯一の寺院となったのです。
浦和・川口・戸田・浮間(北区)・鳩ヶ谷の各地を巡って、最後の33番は札元の定正寺で結所します。定正寺は塚越神社境内に無住の観音堂を残こすだけの姿ですが、ここには開設者高橋休山の墓があります。
番外として、法福寺、八丁観音寺を加えて三十五箇所の札所を参詣するのがこの霊場の特徴です。ある古文書の記述には「御府内(江戸市中)より参詣は川口善光寺よりはじめ・・・・」とありますから、江戸市中の人達もご開扉の際にはわざわざ出張して巡拝したことが想像できます。
開扉は午( うま )年の本開扉、丑(うし)年の中開扉とがあり。近年では平成14年4月5日~14日(午年)、平成21年4月5日~11日(丑年)
一番札所は大宮氷川神社の別当で観音寺でしたが、明治政府の神仏分離令で廃寺することになり、 隆山住職は以前に住職を務めていた満福寺に退去し、一番札所も聖観音像と共に満福寺に引き継がれた。このことが、上述の二つの霊場を結びつけることになりました。満福寺は大宮以南の霊場(1番)と以北霊場(33番)が共有する唯一の寺院となったのです。
浦和・川口・戸田・浮間(北区)・鳩ヶ谷の各地を巡って、最後の33番は札元の定正寺で結所します。定正寺は塚越神社境内に無住の観音堂を残こすだけの姿ですが、ここには開設者高橋休山の墓があります。
番外として、法福寺、八丁観音寺を加えて三十五箇所の札所を参詣するのがこの霊場の特徴です。ある古文書の記述には「御府内(江戸市中)より参詣は川口善光寺よりはじめ・・・・」とありますから、江戸市中の人達もご開扉の際にはわざわざ出張して巡拝したことが想像できます。
開扉は午( うま )年の本開扉、丑(うし)年の中開扉とがあり。近年では平成14年4月5日~14日(午年)、平成21年4月5日~11日(丑年)
【御詠歌】
しらまゆみ
かりにいるみの やばやぐも
おぼへずあたる
のりのおしへに
白真弓 狩にいるの身
矢場(谷場)やぐも
覚えず 当たる
法の教えに
足立百不動尊 第七十四番札所
宝性寺は足立百不動尊 第七十四番札所になっております。
現在の本尊は聖観音ですが、元々は不動明王が本尊でした。
その本尊は十尺ほどであり、現在は本尊正面脇の厨子内には保管されています。
ご開帳時は真正面に厨子を移座し開扉し参拝者の方にご参拝いただきます。
▼ご開扉
酉年 平成29年4月18日(火)〜28日(金)
御詠歌 よのなかを へたてゝすめる宝性の 谷のにはとは たれなつけゝん
薬師如来 六番札所
令和4年4月8日(金)
9時〜15時まで坂東札所は御開帳
宝性寺では御開帳法要を厳修
9時〜15時まで坂東札所は御開帳
宝性寺では御開帳法要を厳修
【足立坂東薬師如来6番札所御詠歌】
薬師仏(やくしぶつ)
願い人々(ねがいひとびと)
身の病(みのやまい)
心の病(こころのやまい)
言えざる話(いえざるはなし)
南無瑠璃光如来薬師仏
(なむるりこおにょらいやくしぶつ)
平成27年3月に改築工事が着工し、平成28年2月に工事完了し業者より引渡し、本堂改築落慶法要を厳修しました。